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HPの歩み−1940年代

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1940年代

「マネージメント・バイ・ウォーキング・アラウンド(MBWA:巡回管理)」を実践するデイブ・パッカード

「マネージメント・バイ・ウォーキング・アラウンド(MBWA:巡回管理)」を
実践するデイブ・パッカード

巣立ったばかりのこの企業の製品はエンジニアや科学者の間で評判になります。第2次世界大戦が始まると、米国政府の電子機器需要は急激に増加しました。HPは最初の自社ビルを建て、新製品を開発しました。

HPの成長に伴って、ビル・ヒューレットとデイブ・パッカードは経営スタイルを生み出しました。これは広く知られているHPのオープンな企業文化の基礎を形成するとともに、多くの後続ハイテク企業の経営方法にも影響を与えることになりました。デイブが実践した経営手法は、後にマネージメント・バイ・ウォーキング・アラウンド、通称「MBWA」と呼ばれるようになりました。それは自ら進んで取り組む姿勢、人の言葉に耳を傾けるスキル、「組織の誰もが良い仕事をやりたいと考えている」という認識を、特徴としてもつものでした。経営者として、ビルとデイブは、後に「マネージメント・バイ・オブジェクティブ(MBO:目標管理)」と呼ばれるようになった原則に従って、会社を経営しました。これは、全体の目標を明確に伝えたうえで、その目標を達成する方法は社員が各自の職域に最適であると考えた方法をとるという柔軟性を認めるものでした。

HPでは、オープンドア・ポリシーも確立しました。つまり、仕切りや役員室の扉をなくして部屋を開放し、信頼と相互理解の雰囲気を創造しました。オープンドア・ポリシーによって、社員は叱責されたり、あるいは悪い結果を恐れずに、積極的にマネージャと問題について討論するようになりました。

ビルとデイブはこれ以外にも、経営に関する重大な決定を下しました。具体的には、高額医療保険を提供する、彼ら自身を含めて社員をファーストネームで呼ぶ、社員のためのパーティーやピクニックを定期的に催すことなどです。


1940年

HPはデイブの家の裏のガレージからパロ アルト市内のページミル通りとエル・カミノ・リアル角の貸ビルに移転しました。

創業1年目を終えた直後に、ビルとデイブは、社員全員がHPの将来の成功を直接分け合うべきであるとの意見で一致し、1940年にクリスマス・ボーナスとして、初のボーナス5ドルを社員に支給しました。同年、プロダクション・ボーナスも採用し、こうしたプログラムは後(1962年)に全社的な利益分配プランになりました。

HPの第2の拠点

HPの第2の拠点


6月に、この若き企業は慈善事業への初の寄付金として、地域の慈善活動に5ドルを寄付しました。

売上高:34,396ドル、社員:3人


1941年

第2次世界大戦中にHPを訪れるビル

第2次世界大戦中にHPを訪れるビル

ビルは1947年まで米国陸軍に従軍。ビルの不在中も、デイブがこの若き企業の経営に当たりました。

売上高:106,459ドル、社員:6人


1942年

レッドウッド・ビルディングの流れ作業

レッドウッド・ビルディングの流れ作業

パロ アルト市ページミル通り395番地で、最初の自社ビルの建設が始まりました。オフィスと研究所と工場を備えた1万平方フィートのこのビル(レッドウッド・ビルディング)では、今日のハイテク企業におけるオープン型の職場の先駆けとなるオープン・フロア・プランを採用し、社員は簡単にアイデアを共有することができるようになりました。常に実用主義的なビルとデイブは事業が伸び悩んだ場合に雑貨店に転用することができるように、このビルを建設しました。

ある社員が結核にかかると、ビルとデイブはその社員の家族に資金を援助しました。さらに重要なことに、当時としては非常に珍しい全社的な高額医療保険制度を確立しました。

売上高:522,803ドル、社員:8人


1943年

オーディオ信号発生器をテストするビル

オーディオ信号発生器を
テストするビル

HPは海軍研究所向けに開発した信号発生器およびレーダー妨害装置によって、マイクロ波市場に参入し、終戦時には、マイクロ波事業の継続という重大な決定を下しました。この分野はすぐにHPの重要な成長事業となり、HPは信号発生器のリーダーとして認められるようになりました。

売上高:953,294ドル、社員:45人


1947年

HPは1947年8月18日に法人組織となり、デイブが社長に、ビルが副社長に任命されました。

HPのカタログには39製品が掲載され、ニューヨークでの展示会で、デイブが参加者に「HPの前途は非常に有望です」と語りました。

売上高:851,287ドル、社員:111人


1948年

HPは勤続年数5年以上の全社員のための企業年金保険を採用しました。

デイブはパロ アルト市教育委員会の委員に就任し、以後9年間にわたって委員を務めました(1948年〜1956年)。このことからも、時代に先駆ける2人の姿勢がわかりますが、ビルとデイブは、HPは良き企業市民であることの責任があると考えていました。

売上高:220万ドル、社員128人


1949年

売上高:220万ドル、社員:166人

1930年代 1950年代
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