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HPのルーツ


HPとシリコン バレー発祥の地、アディソン街のガレージの歴史

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by Deborah Hudson

歴史を記録するのは難しいものです。なぜなら、明確な始まりはわからないことが多く、そしてまた終わることもなく、常に時は進んでいくからです。この記事ではHPの歴史を振り返りながら、シリコンバレー発祥の地となったアディソン街の一軒の家の歴史をご紹介します。

アディソン街 369 番地に建つ家の持ち主として最初に記録されている人物は、後にパロ アルト市長を二期務めたサンフランシスコの著名な医師 ジョン C スペンサー氏です。

アディソン街 369 番地に建つその慎ましい家は、パロ アルトの「教授村」と名づけられた、素敵な家が多く建つ地区との境にあります。 この地区がそう呼ばれるのは、近隣のスタンフォード大学に勤める教授向けに建てられた家が多かったからです。

■ 詳細情報

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記念碑の横に並んだビルとデイブの写真

カルフォルニア州パロ アルト市のアディソン街 367 番地に立つビル・ヒューレット(右)とデイブ・パッカード。ガレージが「シリコン バレー発祥の地」として歴史的建造物に指定され、カルフォルニア州によって記念碑が築かれました。


1920年から30年代

このアディソン街の家の歴史は、1920 年以降、当時の市の記録が紛失したため、はっきりとわからない時期があります。 1919 年から 1920 年にかけての納税記録によると、スペンサー医師夫妻は 2,000 ドルを費やし、二階建ての住居に改築し、一階を 367 番地、二階を 369 番地にしました。

夫妻は二階に移り、一階を賃貸にしていたようです。 ガレージが最初に登場するのは、1924 年当時のこの区画の保険地図ですが、それがいつ建設されたのかは不明です。 1937 年にスペンサー医師が亡くなった後も、夫人はパロ アルトに留まり、この家の管理人として二階に住み続けました。

「A-number-1」

1938 年 4 月、当時ゼネラル・エレクトリック社(GE)に勤務していたデイブ・パッカードは大学時代の恋人、ルシール・ソールターとニューヨーク州スケネクタディで結婚しました。彼の恩師であるフレッド・ターマン教授の薦めもあり、デイブはGEを休職して、かつてのクラスメートのビル・ヒューレットと共に起業するためにカルフォルニアに戻ってきました。 ターマンは、デイブが生計を立てられるようにと、特別研究員としての仕事を手配してくれました。 こうして新婚夫婦は、後に会社の実働資本となるシアーズ・ローバックのボール盤を車の後部座席に積んで、車で大陸を横断し戻ってきたのです。

パロ アルトでは、ビルがデイブのために新しい住まいを用意することになっていました。 ビルは、二人が研究室や作業場として使えるガレージが付いた家に限定して物件を探していました。アディソン街にあるスペンサー夫人の家は、条件を満たす理想的な家でした。 ビルは、当時「たいへん好ましい」いう意味で使われていた「A-number-1」という表現を使い、デイブに手紙でこの家のことを説明しています。 彼らの求める条件にぴったりのこの家を確保するために、ビルは 9 月分の家賃 45 ドルを全額スペンサー夫人に支払ったのでした。9 月中旬になるまでデイブとルシールはカルフォルニアに到着しないことは分かっていたのですが。

3 部屋ある新婚夫婦用の一階部分と、広さが12 フィートX 18 フィート(3.7 メートルX 5.5 メートル)ある、コンクリートの床にワークベンチ付きのガレージに加え、この家にはさらにおまけがついていました。それは 8 フィート× 18 フィート(2.4 メートル× 5.5 メートル)の小さな小屋で、ビルがここに住みました。その小屋は洗面台と簡易ベッドがちょうど収まる程の大きさでした。 後にビルは回想しています。「壁に服を吊るすための釘を何本か打ったんだよ。とはいえ、ふだんは床に置きぱっなしだったけどね。」

夢の実現にむけて

1938年、デイブとビルは、新しい会社を軌道に乗せることができそうな製品の試作品を製作していました。

ちょっと想像してみてください。静かなパロ アルトの夜、アディソン街を散歩して、ふと立ち止まりガレージに目を向けると、夜遅くまで次の新製品の設計に没頭する、二人の若者の姿が思い浮かぶでしょう。 手動の工具、ボール盤、やすり、万力、ドライバ、そしてはんだごてだけを使って、二人は夢に向かって努力していたのです。そしてその夢はまさに実現しようとしていました。

昼間はスタンフォード大学の通信および真空研究室の助手、夜はガレージで製品開発に励むという日々を過ごしながら、やがて彼らは、様々な機器を設計販売するにようになりました。たとえばパロ アルト クリニックにはジアテルミー機器を、近隣にあるリック天文台にはテレスコープを正確に設定するための駆動装置を販売しました。また空調設備会社のための制御装置、ハーモニカ用の調律器の様な数々の小さい製品、ボーリング場のピンの詰まりを知らせる表示装置、またはトイレの自動流水洗浄に使われるエレクトリック アイなどを設計販売していきました。 しかし、アディソン街のガレージでの最高傑作といえば、200Aオーディオ発振器です。これは、HP の最初の製品ラインとなり、会社の未来に金銭的な安定をもたらした革新的な製品でした。

ガレージからの飛躍

ガレージを見つめるビルとデイブの写真

車一台、または天才二人がちょうど入るほどの大きさ。
1989年、歴史的建造物に指定された記念式典のときに、ガレージを見入るビルとデイブ

1939年の半ばまでには、ヒューレット パッカードはパートナーシップを設立し、200Aオーディオ発振器は製品として世に出ていました。しかしビルとデイブには、忘れてはならない沈黙のパートナーが他に二人いました。それは、彼らの伴侶です。

最初の2年間、ルシールとフローラは会社の発展にとってなくてはならない大きな貢献をしました。 ルシールはスタンフォード大学で、そしてフローラは Annual Review of Biochemistry の編集者としてフルタイムで働き、収入を得ていました。 初期の会社を資金面で支えていたのは主に二人の収入であり、安定した経済基盤があったからこそ、ビルとデイブは様々なパートタイムの仕事で、収入を補うことができたのです。

真の協調精神を表している例としては、パッカード家の台所のオーブンは、塗装面焼付けの作業場として使われていたということ。そして彼らのリビングルームは会議室、ダイニングルームは最初のオフィスになっていました。 設立当初のこの頃は、ダイニングルームのテーブルの上には、すべての会社関係書類、財務帳簿、そしてHPの初代秘書権簿記係でもあったルシールとってとても大切な道具である、タイプ ライターも置いてありました。

同じ年にビルとフローラは結婚し、HP のビジネス オフィスは、ルシールのキッチンテーブルから、以前ビルが使用していた小屋へ拡張されました。 そこは中古のデスクとファイルキャビネットがちょうど収まる大きさでした。 ルシールとフローラは、昼間の仕事がないときは、会社のためのオフィスワークを分担して行ないました。

それからまもなくハーベイ・ジーバーが会社に加わり、2人目の社員、ビル・ガードナーが加わるころには、会社はガレージには収まりきれなくなっていました。 そこで会社は、ページ ミル通り481番地にある貸しビル(現在はAT&T ワイヤレス ストアとなっている)に移ることになりました。

デイブとルシールに最初の子供が誕生することになり、パッカード家はアディソン街の家を離れ、パロ アルト市内のバロンバーク地区に引越しました。

その後

1942 年以降、第二次世界大戦と戦後の学生流入による深刻な住宅不足の中、アディソン街の家は再度 367 番地が振り当てられ(369 番地は取り消されました)、さらに 4、 5部屋に分割されました。 群の納税記録によると、スペンサー家はその家を売却し、その後の所有者たちによって、1952 年、1956 年、そして 1957 年に、ポーチの取り囲み、窓の取り替え、および壁、バスルーム、キッチンの増設など一連の改築が行なわれたとされています。

1960 年代後半、パロ アルト クリニック(1930 年代に設立された医師の組合で、アメリカで最初の医療グループのうちの一つ)の規模が大きくなるにつれ、「昔の」パロ アルト、25街区は消えつつありました。 クリニックは区画全体を買い取り、周囲の住宅地域を見下ろすような高層階の病院を建築する計画を立てていました。 幸いにも、将来を危惧するパロ アルト市民の懸念と努力が実り、建築プロジェクトは市の許可が得られずに、実現には至りませんでした。

アディソン街のガレージと家は、1970 年代に再び所有者が変わり、市の建築規制に沿って改築が施されました。 この時所有者は部屋の数を減らし、家を上下一戸ずつの重層アパートに改築しました。 こうして再び 367 番地と 369 番地が郵便受けに登場することになったのです。

歴史的建造物となって

1984 年、この家とガレージの将来が、再び心配される状況になりました。 所有者が再度変更し、ガレージの存続が危ういということは、HPも承知していました。 事態を危惧したパロ アルト市民は、HPの 社員や マネージメントと共に、今や有名になったガレージを、この場所で永久に保存するため、歴史的建造物に指定するための、運動の先頭に立ちました。

1985 年までに、ガレージ、家そして小屋は、パロ アルト歴史資産審議会によって、市の分類1歴史的建造物に指定されました。 アディソン街 367 番地のガレージがカルフォルニア州の歴史的建造物に指定されるまでに、さらに 2 年の歳月と多大な努力が費やされました。 家と小屋は州の歴史的建造物にはなっていないものの、保存される方向で進みました。この家は、HPが2000 年に買い取るまでは借家となっていました。

1989 年、カルフォルニア州歴史的建造物第 976 番として指定を受けたことを祝う記念式典の折、ビルとデイブは、ガレージを訪れました。ガレージはその日に備えて新しいペンキで塗装されました。「シリコン バレー発祥の地」と刻まれた記念碑もその日に公開されました。

HPの原点となった慎ましいガレージを見つめている、生涯の友人の写真は、その日に撮影された写真の中で最も感動的で、愛すべき1枚です。 二人のパートナーの性格を反映してか、彼らの催しに対する反応も穏やかなものでした。 結局は、単なるガレージなのですから。

ガレージの今後

2005年、この家が築100年を迎えるにあたり、アディソン街の小さなガレージとその周辺は、HP の歴史的遺産の象徴としてふさわしい改装が施されます。

デイブとビルが革命を起こしたガレージは補強され、窓は当時のスタイルに復元され、そして外壁に取り付けた羽目板と屋根は、修理および取り替えが行なわれる予定です。 ビルが革新と貢献を夢見た小さな小屋は、徹底的な改造が行なわれ、彼がそこに住んでいた当時とそっくり同じように復元される予定です。 家屋の方は、できるだけデイブとルシールが住んでいた当時の外観と雰囲気と同じになるように、復元される予定です。

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